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「訂正する力」を読んでみた

東浩紀(あずまひろき)の「訂正する力」を読んでみた。
本作は何週にも渡ってベストセラーになった本のようで、店頭でもランキング2位になっていてちょい読みしたら面白そうだったので読んでみた。

「訂正する力」とは修正ではなく、簡単にいうと、現状の状態を肯定するために過去の出来事を適時解釈を加えて再構築していくといったスタイル(生き方)のようだ。

この訂正する力が今日の日本で失われたことにより
リベラルと保守にキッパリ別れて膠着し互いに一歩も引いたら負けという状態。
ひろゆきに代表される論破したら勝ち、負けのよう空気感など、
停滞、閉塞感など日本の現状の状況に警笛をならすという内容だった。

東浩紀氏は日本の批評家、哲学者という肩書で過去の哲学者の考えを引き合いに出し、理解しやすいように「訂正する力」というものの意義、大切さを何度も語っている。

前半から中盤にかけては「もういいよ!」ってぐらいに同じ所をこねこねしてくるので食傷気味になり、もう嫌だと思ったが、この作品がベストセラーになるのはなぜなのか?という点がずっと払拭できない。

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現状の認識では、素晴らしい本には2つの特性があるのかと思っている

1つはちょっと前に読んだ橘玲のような「情報」や「その著者の思考、客観性」をすぐに得れるタイプの本。
この場合は読後感がよく、なんだか賢くなったような気にもなるタイプの本。だが忘れてしまう可能性が大の本ともいえそう。

もうひとつはこの本のように読後感はよくないが、その後もベッタリと張り付いて後を引くタイプ。
ある意味読書体験としてはあまり気持ちよくないのだが、その思考が少しずつ浸透してくる系の本とも言えそう。

これがベストセラーになるのがイマイチわからないけれど、読んだ人の考えや思考が変わるようなことがあれば、それはすごい影響力だと思う。

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「訂正する力」を振り返ってみるに、個人一人ひとりは細かな「訂正」を繰り返して生きている。
自分の過去の過ちや思い込みを捨てないといつまでも生きづらいから、自然にそうなっていく流れであると思う。

これが社会や国家となると途端に効力を失っているのだろうか?

その一員である一人ひとりが、あらためて関係性を「訂正」していくという意味か